無宗教というのはやめよう

中学の同級生が死んだ。

その人とは同じクラスになったこともなければ大した接点もなかった。それどころか生きる世界が違う人間だった。そしてそれゆえに私はその人を知っていた。つまりその人は、運動神経が抜群で、そうかと思えば頭も良い、おまけに顔だちも整っている、そういう人間だったのだ。同じ学年ならみんな、接点がなくても顔と名前くらいは知っているくらいの人だった。地味で目立たない存在だった自分とは違う。

共学では一番難易度の高い高校に進学して、卒業後はそこそこ有名な大学に入ったと聞いた。きっと今頃は就職も決まって、大変なこともあればやりがいもあるような将来の生活に思いを馳せていたころに違いない。本人の、そして近しい人の無念たるや、想像を絶することである。

それに対して自分は、かくも言うようにその人とは接点がなかった。中学の同級生としては。

接点があったのは幼稚園の頃だ。年長の頃、私はいつも「みっちゃん、みっちゃん」と呼んでは遊ぶ約束を取り付けて、よく一緒にワンピースごっことか、ポケモンごっことかをして遊んだ。幼稚園の裏にはどんぐり山といわれる高地があって、放課後はそこでどんぐり拾いをした。お泊り会の日は同じ班で一緒に肝試しをした。幼稚園の記憶なんてほとんどないと思っていても、思い返すとこうしてみっちゃんとの思い出がたくさんでてくる。きっと自分は、他の多くの子たちと同じように、みっちゃんのことが好きだったのだろう…そのころの自分は、まさかみっちゃんの人生が二十年と少しで絶たれることなんて想像もしていなかった。

中学で再会したみっちゃんは、相変わらずみんなに「みっちゃん、みっちゃん」と呼ばれて引っ張りだこだった。みっちゃんは私のことを覚えていただろうか。そうだとしても、そうでなかったとしても、もうそれを確認することはできない。そしてみっちゃんは今、覚えているとか覚えていないとか、そういう次元を超えたところにいってしまった。

みっちゃんの死を、「一人の有望な若者の突然の死」以上のものとして受け止めるには、私とみっちゃんの接点はあまりに遠すぎる。きっと、お通夜やお葬式に参加したら、周囲との温度差に戸惑わされることだろう。かといって、人生のどこかで確かに接点を持った人間の死を、「ご冥福をお祈りします」の一言で済ませることもできなかった。

人間は、自分でない他人の死を、どのように乗り越えて生きていくのだろう? そう考えると思いつくのは、葬儀に参列して、焼香をして…というようなこと。遺体に話しかけて、遺体が骨となって墓に入れば墓の前で話しかけて、そうかと思えば仏壇の前で語り掛けたりして。そんなことを繰り返し、生き残った者として、死者とは関係ないところである種の整理をつけながら、私たちは確かに人の死を解釈することを試み、失った痛みを軽減しようとしている。

考えてみるとこうした解釈の仕方というのは決して普遍的なものではない。私たちは私たちのやり方で――あえて日本人のやり方とは言わないが――死を解釈し、それがあるところでは宗教と呼ばれているのだ。

自分の祖父が死んだときは、私もそうやって祖父の死を解釈し、日々の痛みを乗り越えてきた。今回、そうしたやり方でみっちゃんの死を解釈することができない私は、この微妙な痛みを軽減することもできず、抱えたまま悶々としている。そう思うとわたしは日本宗教に救われた人間であり、立派な日本宗教の信徒なのである。そして今、わたしはわたしの宗教で解釈できない事象に戸惑っているのだ。

私たちはしばしば自分を無宗教だと表現する。しかしそれは正確ではない。自分たちの中に浸透しきっているこうした解釈が、宗教的なものと根を同じくしていると自覚していないだけなのだ。ちょうど、私たちが普段、自分たちの体に流れる血液を自覚していないのと同じように。

自分たちの中の宗教を自覚していないと、「宗教ってなんか怖い」とか、「あんなものを信じるなんてばからしい」とか、そういう視点に陥りがちである。でもそれを言うなら、物質的に無となってしまった死者に、仏壇で話しかければ届くとか思い込んでいるのはおかしいことではないのだろうか。だから私は無宗教というのはやめようと思う。他者に寛容であるために、そしてこれからも、私の中の宗教に助けてもらっていることを自覚するために。

 

 

 

政治に無関心な若者と若者に無関心な政治

私が高校生の時、今より少し大きな駅を利用していたので、駅前で政党が選挙活動しているのをよく見かけました。演説している人がロータリーの中央にいて、その周辺ではビラ配りをしている、というわけです。

でもね、私が通りかかっても誰もビラをくれませんでした。わざわざ声をかけて頼まなければならなかったのです。それは何故か? 制服を着ているのを見れば、私に投票権がないことは誰の目にも明らかだったからです。若者は政治に無関心だなんてどの口が言うものかと思いました。政治が若者に無関心なのに。その状況が変わるなら、18歳に選挙権が与えられるのは良いことだと思います。少なくとも制服姿の人全員を無視するわけにはいかなくなるから。

でも私が言いたいのは18歳だろうか19歳だろうが20歳だろうが21歳だろうが(以下略)、みんな投票に行こうということです。どの政党も政治家も若者に対する政策より高齢者への政策を優先しがち。高齢者のほうが投票者が多いからです。若者の投票率が低いままだと、若者は永遠に無視されたままです。

いや、もちろん、選挙に行くか行かないかはみんなの自由です。私にはなんの強制力もないし、不参加だって表現のひとつです。でもできれば行ってほしいんです。正直どうでもいいって思ってても、たとえテキトーに面白い名前の政党に投票するとしても。みんなが投票することによって若者の投票率が上がるんです。「私たちはここにいるんだ」と声を上げることになるんです。そうすれば政治家も若者の存在を無視することができなくなる。そうすればね、最初はどうでもいいと思ってた人たちだって、どうでもよくないと思えるような政治をしてもらえるかもしれません。


今ちょうどテレビで池上さんが選挙の解説をしています。どれくらいの人が見ているんだろう? 池上さんのことはキライじゃないけど、この『選挙前になると池上さんがひっぱりだこになる現象』にはちょっと思うところがあります。池上さんの説明はわかりやすい。わかりやすいだけに、私も、この番組を見ている他の人たちも、『わかった気になっている』だけなんじゃないかと不安になるんです。少なくとも池上さんの解説を聞いてるタレントさんたちは、「そうだったんだ! わかりやすーい! 池上さんすごい!」で終わっている人が多いように見受けられるし(そうコメントするよう圧力かけられてるのかもしれないけど)、twitterで感想調べてみてもやっぱりそういうのが多い。「池上さんだから見る」みたいなつぶやきを見るとやっぱり池上さんすごいなって思うけど。一体その中で、自分で疑問を抱いて調べたり、これからも関心を持ち続けたりする人はどれくらいいるのかなと不安になります。

わかりやすい説明っていうのは、わかりやすいだけでに表面的だったり、ある程度省いたりしているわけですよね。難しい問題というのは難しいだけに複雑であり、複雑な部分を省いた説明だけでは判断できないから難しいのだと思うんですが。だから専門家たちは、説明するときになるべく複雑な部分は省きたくないのかな。そして結果的にややこしいままの説明になってしまう。でもいちジャーナリストである池上さんは簡単に省いてしまいますよね。それでわかりやすい説明になっているけど、わかった気になってるだけのこともあるんじゃないかなって思うと怖いんです。もちろん、理解度がゼロであるよりは0.5でも理解しているほうがいいのかもしれないけど、でもできれば、なんでもなかんでも池上さんに説明してもらって「そうなんだ! すごーい!」で終わるんじゃなくて、「自分でも調べてみよう!」「これからも関心を持ち続けよう」って思いたいですね。

 

個人的なことだけど、選挙の直前が誕生日なので、10日は遠出すると思います。なので明日は期日前投票に行ってきますね。わざわざそのために市役所まで行くの、面倒くさくないと言ったらウソになるけど。でも私はちゃんとここにいるって伝えたい。だからもうビラ配りの時に私たちのことを無視するのはやめてくださいね、ってね。

それでも「なぜ逃げなかったのか?」を問う人々

bylines.news.yahoo.co.jp

 

私が高校生のころ、電車で痴漢被害に遭ったことがある。

それまで私は、自分がそういう被害にあったら、助けを求めるなり抵抗するなりできるものと思っていた。気が強いほうだと思うし、間違っていることは間違っているとはっきり言うタイプだった。

 

でも実際には、声をだすどころか手を振り払うこともできなかった。それまで想像したこともなかったいろいろな可能性が、次々に頭に浮かんできてしまったからだ。

 

「誰も助けてくれなかったらどうしよう?」

「間違った人が捕まってしまったら?」

「電車が遅れると周囲の人に文句を言われたらどうしよう」

「学校に遅刻したらどう説明しよう。どこまで伝わるんだろう」

 

「もし相手が逆上したらどうしよう?」

「『やってねえよ!』と怒鳴られたら?」

「周りの人が誰も信じてくれなくて、冤罪扱いされたら?」

「共犯者がいたら?」

「相手が刃物を持っていたら?」

 

結局わたしは我慢することを選び、自分の側のドアが開くまで2駅の間、どこまでされるのかという恐怖と嫌悪感に耐えるしかなかった。ホームに降りてもう安全だと思ったとき、当時の彼氏に電話しようと携帯を取り出して、やめた。

『それって本当に痴漢なの? 勘違いだったんじゃない?』

『自衛が足りなかったんじゃないの?』*1

『助けを求めればよかったのに。たかが痴漢じゃん』

『どうして抵抗しなかったの? 実はうれしかったんじゃないの?』

『痴漢に遭った報告なんかされても…それ私可愛いですアピール?』

彼氏は普段からそういうことを言っているわけではなかった。でも私は、そういうことを平気で言う人がいるということを知っていた。このことを誰かに話して慰めてもらいたかったけれど、そのせいで余計に傷つきたくはなかった。

 

残念なことだけど、実際に「自分の力ではどうしようもない状況」に置かれたことのない人の想像力というのは、あまりにも貧困だ。私もそうだった。でも、『たかが痴漢』でさえ、逆上されたら何をされるかわからない、失敗したらどうなるかわからないという恐怖感から声をあげられないということが、このときようやくわかった。

それが、自分を車で連れ去った人間だったらどうだろう? まして女子中学生と大学生の男性では体格差も大きく、大学生のほうは「いかにも犯罪しそうな人」というわけではない。助けを求めても、「まさかあの人がねえ」で済ませられてしまうかもしれない。

 

それでも「なぜ逃げなかったのか?」を問い続ける人へ。

まだ容疑者の証言を得られていなく、少女の言い分だけで判断するのは…というのはわかります。でも、今の段階で*2少女の落ち度を声を大にして責めるのは、今後類似の事件が起こった際に、被害者の声を封じ込めてしまいます。被害者が声を上げられない社会というのは、 つまり犯罪者にとって都合の良い社会です。そういう社会を自分が作っているかもしれない、ということも考えてみてください。

それから、被害者の言い分ばかりが優先され、時には被害者の証言のみで罪が確定してしまうのは、被害者のせいではなく、日本の司法の問題です。そして、まだ少女の証言しかないにも関わらず、「監禁」などの犯罪が確定したかのような報道には私も違和感を覚えます。しかし、そこに不満を感じるのなら、責めるべきなのは少女より司法・マスコミでは。

 

 

私がこの痴漢にあった話を友人等にできるようになったのは、5年以上経ってからだった。もちろんしょっちゅう言いふらすわけではないし、話をするときも「自分が受けたのなんて大したことないんだけど…別に電車乗れなくなったわけじゃないしw もっとひどい痴漢だってたくさんいるし」という風に、なるべく軽くして話してしまう。そう言われるかもしれないな、と先回りしておくことで、傷つくことを回避しているのだ。でも、そういう言い方をしても、 想像力を働かせて、「そういうとき、怖くて何にもできないよね」と言ってくれる人はいる。そういう想像力を私も持ちたい。

 

 

*1:被害者の落ち度探しをせずにはいられない人のために一応書いておくと、私は黒く分厚いタイツを履いて黒のコートを着ていた。顔と手以外の露出はしていないし、容姿をほめられることはあまりない。要するに、痴漢に遭うのは派手で可愛い人ばかりではない。

*2:中学生の落ち度を責められるときっていつだろう。2年間一緒に暮らしたというのも嘘で、実際には数時間前保護しただけだと判明したときくらいかと思うんだけど

中華料理を食べ残すとか残さないとかそういう問題ではなく

 こんなツイートが知り合いからのRTで回ってきて、まあさすが影響力のある人だけあり3000RTくらいにはなっていたんだけど、個人的にはこの西川さんのツイートこそ鵜呑みにしたらマズいんじゃないかなぁと思ったので記事を書く。


 まず、中華料理は食べ切ると失礼になってしまうということについて。

 もともとこの考えは「お客さんが料理を食べ切る=満足していない」という考えに基づいている、というのは知られている話だと思う。自分がお客さんという立場のときに出された食事すべて食べ切ってしまって、もてなす側の中国人がどんどん追加で注文してしまった(あるいは料理を持ってきた)なんて失敗談はよく聞く。私も高校生の時、中国からの留学生に本格中華をごちそうになり、食べ切ろうと必死になっていたら「食べ切らないほうがいいんだよ」と言われたことがある。

 中国の文化は「満ち足りる」ことに重きを置いている。だからなのか、与えるときは余るくらいに、というのが慣習のようだ。海外にやってきた中国人が「爆買い」していくのは、親戚や友人(しかもこの「親戚」の範囲も日本よりずっと広い)に余るほどのお土産を渡すからである。「たくさんもらったら迷惑だろうから、ひとつだけでいいです」なんて言うのは、彼らのプライドを傷つける恐れがある。

 もちろん、家での食事であれば残したら怒られるということは十分にありえるだろう(私は中国の家庭で育ったわけじゃないのでホントのところはわからないが)。それに外食にしたって、確かに最近は中国でも食べ残しはやめようという考えが広まってきているらしい。数年前には光盤行動(だったかな?)というのがニュースになっていた記憶もある。中国事情に詳しくない私が「その考えが一般的だ」と言い切ることはできないが、そうでないと言い切ることもできない。

 しかし、「食べ切ると失礼」(というか「お客さんが食べ切れる量の料理を出すのが失礼」)という考えは確かに存在していたし、今もしているかもしれない。その考えを「都市伝説」とか言い捨てるのはいかがなものかと思う。

 ただ、私が今回のエントリーで言いたいのは、中国文化に対する西川さんの認識が間違っている! とかそういうことではなく。

「世界のどこに行ったって、食べ物は残さない方がいいに決まってんじゃんね!」という部分である。

 ある価値観が、世界のどこに行っても通用する絶対的なものだ、という考えを持つのはあまりよくない。意外にもひとつの文化の中で通用している価値観というのは脆いもので、おそらく世界のどこを探しても「世界のどこに行ったってそうに決まってる」という価値観は存在しないのではないか。「人を殺してはいけない」という価値観だって、死刑社会では完全には通用していないわけだし、妊娠した女性に牛を贈れば父親として認められる社会もある。それでもある程度普遍的な最低限のルールを作ろうとして国連人権委員会とかが頑張っているわけだけど、まあうまくいってないので戦争とかが起きるわけである。「笑顔に言語の壁はない」とか言うけれど、言語の壁にぶつかったときに笑顔で乗り切ろうとすれば「何ニヤニヤしてんの?」「バカにしてるの?」と言われても全く不思議ではない。笑顔にも文化の壁はある、残念ながら。

 そういうとき何が大切かというと、「壁がある」ということを知ることだ。この世の文化全部を頭に入れておくことができたら素晴らしいけれど、そんなことできる人間はいない。でも、「自分の常識と相手の常識は違うかもしれない」と思っておくことはできる。そうすれば、壁にぶつかったときに、相手を責めたり自分を責めたりする必要はなくなる。うまく対処することもできるかもしれない。

 最初の中国人留学生は、日本では出された食事すべてを平らげるのが礼儀だということを知っていたから、わたしがそうしようとしたとき止めてくれた。逆に私が日本文化に明るくない中国人を日本の料理店に連れていくことがあれば、食べ切ったほうがいいんだよと教えることができただろう。余裕があれば、どうしてそうなのか? を知ることで、お互いの文化に対する理解を深めることができる。最初から「この価値観は絶対的なはずだ」という考えを持ってしまうと、壁にぶつかったとき、相手に不信感を抱いたり、怒りさえ覚えたり、相手の文化を見下すなんてことにもなりかねない(私に「なんで笑うの?」と問いかけた女性はそうだっただろう。残念ながらそのとき理由を説明できるほどの語学力が私にはなかったので)。

「自分の常識は通用しないかもしれない」この感覚を持つことが、文化と文化が分かりあうための第一歩だ。私と西川さんじゃ影響力は天と海底2万マイルほども違うけれど、1人でも多くの人にこのことを考えてもらえたらうれしい。

トリコロールアイコンへの私見


以前このブログで、FBにかつてあふれたレインボーアイコンに対する私見を書いた。あの時みんなが揃いも揃ってアイコンを変えたことには、アメリカ最高裁判所での同性カップルに対する結婚を認める判決が出たことへのお祝いの意味がこもっていた。

FBを利用する人なら、数日前ニュースフィードにトリコロールの三色アイコンがあふれたことはご存知だろう。今回は任意の時間が経つと勝手に元のアイコンに戻るようになっていたので落ち着くのも早かったが、一時友人リストが似たようなアイコンの人ばかりになったのは六月のレインボーアイコンの件を彷彿とさせるものがあった。

ただ、アイコンの色が変わるということは同じでも、トリコロールの三色と虹色では意味合いが全く異なってしまうことは、もうすでに何人もの人が指摘してくださっている通りである。

私は別に、「シリアやイラクで毎日起きている惨劇をよそに、パリの時だけ騒ぐのはおかしい」というようなことは言いたくない――彼らが紛争地域の現状を想像したこともないとか、意図的に無視しているとは思わない。

ただでさえ多くの人が人生で一度は憧れを抱く街、パリだ。その地への親しみ度合いは人それぞれであろうが、シリアの首都の名は知らなくともパリの名を知っている人のほうが多いだろう。

そしてパリは紛争地域ではなかった。ちょうど、日本にいる私たちがシリア紛争を他人事として感じることができていたのと同じように、パリの人々もシリア紛争で自分たちの命が脅かされているとは思っていなかっただろう。
そのパリで、129もの無辜の人々の命が奪われた。シリア周辺を支配するISIS(いわゆるイスラム国)メンバーの手によって。

いままでずっと遠い出来事だったシリア紛争が、自分たちの知っている、そして安全と思っていた地域にも飛び火した。そのことが人々に与える衝撃は、残念ながらシリアで毎日起こっている惨劇が人々に与える影響よりも大きかった。

つまり、パリの平和と安全を願うことは、自分たちの平和と安全を願うことにもつながっているのだ。今回亡くなった人々に、自分や自分の親しい人を重ねている人は決して少なくないだろう。

もちろん、心理的に近しい地域だからといってパリのことばかり気にかけるのはおかしいのでは、と問題提起していくことは必要なことだ。でも、人情を考えると、アイコンを変えた人々を、それを理由に責める気にはとてもなれない。

それに、パリの平和と安全を願うことが、必ずしもシリアの平和と安全を願わないことにはつながらないし、今回の事件で胸を痛めた人ならば、シリア地域の現状に胸を痛める心もきっと持っているだろう。

でも……でもまだ、疑問に思うことがある。

レインボーアイコンの時に「お祝いの仕方は人それぞれ」と述べたように、祈りの表し方も人それぞれであるべきだろう。別にツイッターに「黙祷」って書いてもいい。

ただ、アイコンをフランスの象徴たる国旗にすることは、あまりにも挑発的すぎるのではないか、と感じたのだ。

もちろん、挑発されたからといってその挑発に乗って良いわけではないし、まして暴力を以って――罪のない人々の命を人質にして対抗するなど、許されて良いわけがない。そのことは前提としてある。

ただ、シリアに日ごろ爆弾を落としている航空機の中にはフランスの国旗を冠した空爆機もあるだろうし、シャルリー・エブド紙の風刺画掲載を擁護したのもフランス政府だ(もちろんフランスだけじゃないけど)。

命や尊厳を脅かされている人々はパリだけにいるわけじゃない。むしろ、それらをフランス国旗のもとに脅かされている人々がいる……そう考えると、平和への祈りをフランス国旗というかたちで表すのはあまりに軽率ではないかという思いがちらと脳裏をかすめる。それどころか、パリの被害者たちですら、フランス国旗のもとに殺されたのではないだろうか? それはいいすぎか。それにしても、アイコンをトリコロールに変えることが、果たして平和への祈りを表明するのに適した方法なのか、疑問が残る。

「思い出のマーニー」考察


「思い出のマーニー」が10月13日に金曜ロードショーで地上波初登場すると聞いて、
映画館で観て以来ずっと頭の中にあったものをはやく言葉にしてあげなければならないなと思った。

この映画最大のミステリーポイントは、「マーニーとは誰なのか」。
しかし、それをこの物語のテーマだと思いながら見ると、「結局よくわからない」映画になってしまう。

では、このポイントに対する私なりの解釈を書いてみようと思う。
といってももうさんざん他の人の手によって解釈され尽くしている感もあるので、
「そんなのもうとっくにわかってたよ」なんてこともたくさんあるかもしれないけれど、
「そういう考え方もできるな」と思えるようなこともあればうれしい。

あと、この映画は何度見ても面白いのは確かだけれど、
最初の1回はやっぱり結末を知らない状態で観てほしいと思う。
この記事はネタバレとなるのでまだ本編を観ていない方はご遠慮ください。

 

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普通に普通でいられる人びと

 

 選択的夫婦別姓同性婚合法化などなどに対して「秩序を乱す」とか「伝統的な家族観が壊れる」などいう人は、その秩序や伝統の下に傷ついたり嫌な思いをしたり不便な思いをしたり安全な生活を脅かされたりする人々の存在はまったく気にかけない、むしろ、そういう人々がいることすら想像したことのない人なのかもしれない。

 ただ、そういう発想をしたことがないというのは、つまり自分自身がそういう経験をしたことがないということでもあって、ある意味で幸せな人生を歩んできた人なのだろう。

 また、そういう人々の存在は知っているけれど、実際にそれがどういう生活なのか想像もせずに、「そんなの大した問題じゃない」と我慢を押し付けるような人もいる。

 そういう人は、今まで自分たちと比べて権利を(不当に)制限されてきた人々が自分たちと同等の権利を手にすることに、ある種の恐怖を抱いているようにすら見える。

 

 実際に、夫婦別姓を選べないことや、同性同士で結婚できないことは実質的に大した問題ではないとしよう。

 結婚した2人のどちらかが姓を変えることになっても、誰しもが特に支障なく手続きを終えることができて、初期の混同やらなんやらも問題なく乗り越えることができるとしよう。

 それでもやはり夫婦別姓の選択を可能にする法律が存在しない限りは、政府が「結婚したらどちらかの家に入るべき」という考えを捨て去っていないことになるし、「結婚した後も旧姓○○家の人間としてのアイデンティティを捨てない」生き方は奨励していないことになる。

 わたしはおそらく選択的夫婦別姓制度が導入されてもすぐにはそれを選択する人は増えないと考えているけれど、それでもそれが制度として存在しているかどうかは大きいと思う。*1

 同性婚にしても、制度として結婚はできなくても同居するとかなんとかして(雑ですみません)、事実婚の状態になることはできても、やはり同性婚が制度として存在しない限りは政府がそれを生き方の一つとして尊重していないことになる。

「制度はどうあれ気にしない」という当事者の方々もいるし、それはカッコいいと思うけど、個人としては制度として存在してほしいという気持ちがある。

 

 さきほど、「ある意味で幸せな人生を歩んできた人」と書いた。さほど苦労をしなくても、秩序と伝統の下で権利を行使できて、それを当然と思っている人たちのことだ。ちょっと考えてみてほしい… 自分が日本社会の圧倒的マジョリティ(それを「普通の人」と言ったりもする)に属しているのは、はじめから自分らしい生き方を社会が承認してくれているのは、偶然のなせる業じゃないか? と。

 

 

 

 

 

*1:実質的な問題は生じていなくても、制度として存在する/しないが問題になることはほかにもあって、男女の結婚可能年齢の違いもそのひとつである。

 現在、日本の法律上は女性16歳、男性18歳から結婚が可能である。ざっくり言って、女性のほうが若い状態で結婚すべしとされている社会というのは、女性が「守られるべき存在」とされていたり処女信仰があったり、つまり女性が社会的に弱い立場に置かれている。実際に16歳で結婚する女性がほとんどおらず、それで不自由する人もほとんどいないにしても、法律を維持したままでいるのはそういう社会のありかたを問題視していないと解釈される可能性は十分にある。