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今までに見たTED talkの感想(随時更新)

書きたいことはたくさんあるし、実際のところたくさん書いてはいるんだけど、いつも書き終えることができなくて、このブログの非公開記事には書きかけの文章が大量に溜まっている。

書くことが好きで、小学生のころは自由帳を文字で埋めていた身としては寂しくそして歯がゆくもあるのだけれど、ここ数年は大学のレポートくらいしか文章を書いていないし、これも仕方のないことかもしれない。

と、書き出しから本文の趣旨に関係のない話なんかをしちゃうのも文章が下手な所以か。

だから今回は長い文章は書かない。今までに見た動画にコメントをつけて紹介していくだけなら、短い文章の組み合わせで済むもんね。

 

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LGBTの人たちに対して思うこと


こんなタイトルにしておいてなんだけど、私はLGBTの人たち――あえて「性的指向が同性に向く人」と言いたいが――に対して特に何も思っていない。率直に言うと、そういう人たち自身にはあんまり興味を持てないのである。

こう書くと誤解があるようだけれど、彼らがこうむる人権侵害や不平等な取扱い、差別に関しては関心があるし、そういったものは是正されるべきと強く信じている。むしろ、「彼らに興味を持てない」からこそ、なぜ迫害されなければならないのか、と感じているのだと思う。

私にとって友人や親せきの誰かが同性と付き合っていたり同性を好きだったりしてもそれは私にとってはどうでもいいことで(もし私の知っている女の子が私のことを好きだったら何か悩むかもしれないけれど、それは私の男友達が私を好きだったらやっぱり悩むのと同質のことだと思う)、例えば私の兄が今付き合っているのが男の人か女の人かなんて、その人が猫アレルギーかどうかと同じくらい気にならない。知っておくに越したことはないけれど別に知らなくてもいいという感じだ(うちに猫はいないし)。それよりも、その人がどういう人間なのかということが気になる。「そう考える人間は少ない」というのが「変わっている」ということだったら、きっと私は変わっているのだろう。

だいたい兄弟だろうとどんなに親しい友人だろうと、その人がどっちの性(どっちでもないこともあるが)を好きになるかどうかなんて、その人を好きになってしまったり、好かれたり、同じ人を好きになってしまったりでもしない限り自分には全然関係ないことだし、よくみんなそんなことによくも悪くも興味津々になれるなあと思う。その人に好かれた場合も好きじゃなければお断りすればいい話だし好きなら付き合えばいいし、同じ人を好きになってしまったらそれは同性かどうかに関わらず難しい話である。

「なんかよくわかんないけど」怖い、とか気持ち悪い、とか思ってしまうのはある程度仕方ないことかもしれない(これは外国人などに対しても抱きうる感情である)。でも目の前にいる人の性的指向が誰に向くのかなんてたいていの場合どうでもいいことではないのか。そしてそんなどうでもいいことを根拠に差別されたり、好きな人と結婚できなかったりするのはおかしいのではないか。

私たちの人格というのは、誰を好きになるかということにそんなに大きく影響されるのだろうか。たまに「ゲイの友達ほし~い」なんて話を聞くけれど、私の周囲にいる同性指向の男性たちには(テレビでよくあるような)毒舌でズケズケ言ってくるような人はいないし、女言葉でしゃべる人もいない。中には「お前って本当に男を見る目がないよな」って言ってくる人はいるけれど、それは悲しいことに異性指向の男性にも女性にも言われることである(……)。同性指向の人々の間で特有の文化が生まれているのならそれは興味深いことだけれど、同性指向の人全員にその文化に染まっていることを期待するのはおかしい話だし、その文化だけを理由に「友達になりたい」なんて失礼な話だと思う。これは「同性指向の人」を「外国人」に置き換えてみても同じことだ。

それに、世の中は同性愛者と異性愛者に区切られるのだろうか。私は今まで男性としかお付き合いしたことはないし、女性に恋愛感情を抱いたことはないけれど、それは実は偶然で、これから先女性を好きになることもあるかもしれないし、ないかもしれない。もし将来的に女性を好きになったら、その時には性的指向を理由に差別されない社会になっていることを望む。

アメリカ全土での同性婚合法化に対して思うこと

 

 アメリカで同性カップルの結婚を禁じるのは違憲とする判決が出た。以前からいくつかの州では同性婚の合法化がされていたはずだが、最高裁判所が認めたことで、今後はアメリカ全土で合法化される。また、「結婚できる」という単純な手続き上の変化だけではなくて、結婚しない/するつもりのない同性愛者たちにとっても喜ばしいことだと思う。社会が同性愛をカップルの形態として承認すべきと裁判所が示したことでもあり、さらに今まで同性愛者たちが受けてきた扱いが権利侵害だということが、公にも認められたことになるからだ。

 それをお祝いするパレードがアメリカのみならずさまざまなところで行われたり、フェイスブックのアイコンをみんな虹色にしてみたりと、各地でちょっとしたお祭り騒ぎになっている。Twitterで「#LoveWins」とつぶやくと虹色のハートがでるようになっていると聞いて、自分も半信半疑でつぶやいてみた。ちっちゃい虹色のハートは可愛かった。

 前述のとおり、この判決で影響を受ける同性カップルにとってはもちろん喜ばしい話だし、そうでなくとも禁止に反対していた人々、どこかで気にかけていた人々にとってはうれしい話だ。今回はアメリカの話ではあるけれど、アメリカがそういう判断をすることで追従する国もたくさん出るだろう。大きな前進であると思う。お祭り騒ぎするのも無理はない。

 

 でも、今回自分はそういうのには加わらないでいようと思う。理由はいくつかあって、まず、自分はこれをお祝いできるほど同性婚が認められるように努力してきたわけじゃないということだ。関心はもっていたけれど、意見を発信したり、ほかの人を巻き込んで何かをしてきたわけじゃない。「やったー!」と勝ち誇ってLoveWinsと叫ぶよりは、今まで頑張ってきた人、耐え忍んできた人々におめでとうと言うべき外側の人間だ—―いや、むしろ、今まで傍観してきたことを反省しなければならない、もっと外側の人間なのかもしれない。

 ふたつめの理由は、なんとなく今回のお祭り騒ぎに違和感を抱く点があるからだ。「これは "愛の勝利" なのか?」ということである。興ざめなことを言うようだけれど、同性カップルの結婚は差別問題、人権問題だ。同性婚が合法化したのはそれが差別に基づく人権侵害だとアメリカが判断したからであり、別に愛の力が "勝った" わけではないし、まだ同性婚が合法化してない国では、同性愛者が愛を示せば "勝てる" わけでもない。もちろん、愛があるからここまで頑張れた人々もいるんだろうし、そういう人にとっては愛の勝利と言っても差支えないんだろうけど、外側の取り巻きとして突っ立っていただけの自分が「愛の勝利」と言ってしまったら誤解が生じるのではないかと思う。あえて勝利という言葉をつかうなら、近代的自由と平等の勝利――の方が、自分にとっては違和感がない。

 そしてみっつめの理由は―これはまだゴールではないということだ。この件は、より多くの人が同性愛者の権利が侵害されているのか考えるきっかけになったと思うし、私にとってもそうだけれど、そのことについて今後も考え続けなければいけないと感じる。そして、日本ではまだ同性婚が認められていないことに対してNOと言い続けなければならない。

 

 念のため書いておくけれど、喜びの度合いは人それぞれだし、お祝いの表現の仕方も人それぞれでいい。今回も自分の意見をつらつらと書いたけれど、そもそもこんなこと他人にああしろこうしろと言うことでも言われることでもなくて、「~なければならない」と書いたのは自分が自分に対してそう思っているというだけであり、みんなそうしろと思っているわけではない。それにアイコンを虹色にするっていうのは自分の立場を周囲の人に発信するいい手段だと思っている(ただ、熱心な人もただ便乗しただけの人もみんな一様の虹色になるから、いろいろ言う人もいるんだろうとは思うけど)。

 自分はせっかくブログを持っているので、ブログで「今回の判決を嬉しく思う」と書くことで自分の意見を表明することにした。そして今回のことをきっかけに、単なる取り巻きであることをやめて、権利侵害に対して考えを示していきたいと思っている――まずは文章の練習をしなくちゃな。

 

*7/20 タイトルが「同性愛合法化」になっていたことに気づき、訂正。

私が共感覚を持っているわけではないと感じる5+1の理由

 

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私の友人に共感覚を持っている人がいる。彼女は音や文字に色を感じ、足音や表情、感情にも色を感じるそうだ。

そしてその彼女が私に「共感覚とはなにか」と、おそらく私も共感覚を持っていることを教えてもらったのは中学3年生の頃だった。

記憶にある限り、文字はいつも色と結びついていた。例えば「結」という字は絶対ピンクだし、記憶の「記」はくすんだオレンジだ。「憶」という字は立心偏が鈍色で意が赤に近いえんじ色、と少し複雑な様相を見せる。中には私が知らない色と結びついている字もある。

そういうこともあって、もしかして…? と思ってインターネットで少し調べてみた。共感覚を持っている人のブログとかも読んでみた。

そして、「やっぱ違うかな」と思ってそれきりあまり考えたことはなかったのであった。

違うかな、と思った理由は主に以下のとおりである。


1.別に色が見えるわけじゃない

黒い文字は黒い文字にしか見えないし、青でも赤でもまた然りである。
ただ、例えば「文字」という黒で書かれた線を見て、頭の中で読んでみると、暗い緑色のイメージが勝手に浮かび上がってくる。
また、「文字」という字を頭の中で書こうとすると、やはり暗い緑色になる。
あえて「見える」という言葉を使って表現するなら頭の中で見えてるのだろうか。
だから「文字に色がついて見える!?」とかいうふれこみで書かれているネットの記事とかにはイマイチ共感できなかった。


2.双方向性がない

たとえば、音楽に色がついて見える人はある色を見るとその色と結びついている音が聞こえるのだという。最近知り合った友人は景色に触感が結びついているそうなのだが、やはり同じことが起こるという。でも私はそういうことはない。


3.色がついていない文字もある(気がする)

たとえば数字でいうと2とか4とか8は色との結びつきが強く感じられるのだが1とか9はわりと曖昧で、以前は違う色と結び付けて考えていた気がする。


4.いくつかの文字については、なぜその色を連想するのかわかる

たとえば「な」は暗い紫色なのだが、これはどう考えても茄子の色だ。
「0」がレモン色なのには、ゼロ=れい→れ→レモン色、という経過があり、他の数字に感じては小学校のころに気に入っていた九九の表に影響されている(気がする。今となっては全くその通りだったか覚えていないし、確認もできない)。
上に書いた曜日については、小学校の教室にかけられていた時間割表に影響を受けている(と、思う。同上)。
「す」が水色なのは「すい→水」という連想があるからだろうし、このように、いくつかの文字については「ただその文字を使う語から連想されるだけではないか」と考えている。
「赤」「青」などの字はだいたいその通りの色がイメージされるし。
一方で、結=赤みピンクなど、なぜその色なのか全く思い出せないこともあることはある


5.自分のイメージと違う色で書かれても特に何も思わない

最初に紹介した友人は、「ある文字に対して、自分が思っているのと違う色で書かれると気持ち悪くなることがある」と話していたのだが、私はまったくそんなこと経験したことがなかった。1で書いたように、黒で書かれた文字はやっぱり黒にしか見えないし、赤でも青でも以下略だ。
(ただ、この記事を書くのにまた共感覚に関するブログとかを読み直していたら、「五十音表がこんな風に見える」と字の色を変えて説明していた方がいて、それを見たら自分のとあまりに違いすぎて心がもやもやした。これを「気持ち悪い」と表現するなら、私にも当てはまるんだろう)。


6.なんだかんだみんな文字に対して色を連想することくらいしているだろと思っている

結局のところ、一番の理由はこれだ。

涼宮ハルヒの憂鬱」で、ハルヒが自分が毎日髪形を変える理由を説明するシーンがある。『曜日によって感じるイメージってそれぞれ異なるような気がするのよね』『色で言うと月曜日は黄色、火曜日は赤、水曜日は青、木曜日は緑、金曜日は金色で土曜は茶色、日曜日は白』

それに対して主人公のキョンはこう思う。『それはなんかわかるような気もする』私はというと、「うわ~~それめっちゃわかる! でも私的に月曜日は深緑で火曜日は黄色かな~~あと土曜日は紫で日曜日はピンク!!」って感じ(水曜日と木曜日しかあってない)
とにかくハルヒもそういってるし、キョンもわかると言っているし、みんなそんなふうに考えたりしているんじゃない? と思ったのだ。

 

まあ私が実際に共感覚を持っているとされてもされなくても、文字に色を連想するのは確かだ。でも、別にそれで得したことはない。
しいて言うならこうしてブログのネタにできることくらいかな。

文字と色が結びつく共感覚について書いた記事で、「暗算に使える」とか書いてあったけど、どうやって使うのか教えてほしいくらいである。

 

何故、今ブログを始めるのか

ブログというものが、インターネットで情報を発信するツールとして、主流でなくなって久しい。
 
ブログ全盛期というとせいぜい2005年から2006年くらいの話で(「ブログ」 という言葉は2005年度の流行語大賞に選ばれた)、それ以降はmixiTwitterFacebookの台頭によってしだいに勢いは衰え、今では個人ブログというものは(少なくとも私の周りでは)ほとんど見かけなくなってしまった。
 
Twitterは気軽に情報発信する上では非常に便利なツールだ。ただひとこと書いて投稿してしまえば成立する。それは社会問題についてでもいいし、「今日のカレーは美味しかった」とかでもいい。
その点で言えば、Facebookもかなり気軽に意思表示ができる。長文を書いて投稿するのでは少しハードルも高いかもしれないが、その代わりに自分の意見を見事に代弁してくれてる記事を読んだら「いいね!」ボタンを押せばいいのである。
 
一方のブログは、最近は「いいね!」機能を搭載したものもあるし、一昔前は「web拍手なんてのもあったけれど、それは読み手がブログの記事に対して行うコミュニケーションであって、書き手のほうはブログをただ書くしか表現の方法はなかった。読むほうだって、知り合いのブログ全部がひとつのページにあつまっているのを流し読みするのではなく、わざわざそのブログに飛んで更新をチェックするわけだから、ただ持ってきたニュースを拾って「いいね!」と書くだけではとても定期的に見る気にはなれない。
さらにブログが流行する前はみんなわざわざ日記ひとつのためにHTMLを書いてFTPソフトでサーバーにアップして、なんて作業をしていたわけで、そこまでして公開する記事をただニュースやら面白い動画の紹介やらで終わらせるなんてことはとてもできなかっただろう。
 
結局のところ、SNSの流行がだんだんと簡単なほうへとシフトしていくにつれて私たちは自分の言葉をひねり出して意見を書く必要性にせまられなくなり、「いいね!」したり、せいぜいシェアしたりする位でも表現として受け入れられるようになってきてしまった。
 
そして私は思ったのだ。それでいいのか、と。
 
大学生だからということもあると思うが、私のfacebookのフィードには社会問題、とくに国際社会問題に関する記事のシェアが圧倒的に多い。貧困とか紛争とか、そしてそれらの困難に立ち向かう人の話とかだ。それらは私が知らなかったことや興味のあることに新しい情報を与えてくれるので、「いいね!」したり私もシェアしたりする。Twitterはややおふざけ感が増すが、やっぱり面白いツイートや興味深いツイートはお気に入りに登録するし、RTすることもある。
 
そしてそのあとどうなるのかというと、それっきり忘れてしまうのである。
 
貧困に苦しむ少女の話を覚えていたとしてもその少女がどこの国で暮らしているのかまでは覚えていないし、紛争で兵士として働かされた少年の話は覚えていてもそんなことがあるのだな、ということまでで終わってしまい、世界にはどれだけの数の少年兵士がいるかなんてことはわからないままである。自分がどんな記事にいいね! したのか頻繁に思い出すならまだしも、そんなこともない。ニュースフィードに流れてきた記事にいいね! しようと思ったらもうすでにしていた、なんてことだってある。それならせめて1行でも自分の思ったことを自分の言葉で表現して一緒に残しておこう、と思った次第である。
 
いやいやちょっとまて、それならFacebookでもいいじゃんと思われるかもしれない。確かにFacebookにもシェアと一緒にコメントを残せる機能があるし、そもそもその記事自体にコメントを残せばいいじゃんと思われる人もいるかもしれない。実際
そこであえてブログを始めるのは、ブログの方が自分の率直な意見を書くことができるからである。
 
Facebookっていうのは、「友達」が「友達の友達」にしたコメントなんかも平気で表示してくる。一時期Twitterも「◯◯さんがお気に入りしました」とタイムラインに表示するようにして大バッシングを浴びたが、Facebookにはその機能がデフォルトだ。
で、私とFacebookで友達になった人の中には、最近知り合ってちょっと挨拶したついでに、なんて人もいるし、大学の入学式以来ロクに話してない人なんかもいる。そういう人たちのFacebookになんかエラそーな私のコメントが表示されると思うと抵抗があるし、その抵抗感ゆえに思ったことをそのまま書けないということがある。「いいね!」やコメントの数も気にしてしまう(もちろんそんなの気にしないわって人もいるだろうけれど- ということに関してはまた別なエントリを書こうと思う)。
 
その点ブログなら、わざわざリンクから飛んで読みに来てくれるのは多かれ少なかれ私に興味を持ってくれている人だろうし、「興味ないなら見なきゃいいじゃん」というのがFacebookTwitterよりは通用しやすい。それと同時に、全く身内ではない相手にも意見を公開できる。それに、HTMLでイチからサイトをつくるよりは手軽だ。
手軽な情報発信は確かに人々がつながるのを容易にしたし、リアルの人間関係を構築する手助けもしているけれど、一方でその手軽さゆえに「考えたことを自分の言葉で発信する」ことのハードルを高くしてしまったと思う。そんな時だからこそ、ブログを使って情報発信することのよさが生きるのではないだろうか。