LGBTの人たちに対して思うこと


こんなタイトルにしておいてなんだけど、私はLGBTの人たち――あえて「性的指向が同性に向く人」と言いたいが――に対して特に何も思っていない。率直に言うと、そういう人たち自身にはあんまり興味を持てないのである。

こう書くと誤解があるようだけれど、彼らがこうむる人権侵害や不平等な取扱い、差別に関しては関心があるし、そういったものは是正されるべきと強く信じている。むしろ、「彼らに興味を持てない」からこそ、なぜ迫害されなければならないのか、と感じているのだと思う。

私にとって友人や親せきの誰かが同性と付き合っていたり同性を好きだったりしてもそれは私にとってはどうでもいいことで(もし私の知っている女の子が私のことを好きだったら何か悩むかもしれないけれど、それは私の男友達が私を好きだったらやっぱり悩むのと同質のことだと思う)、例えば私の兄が今付き合っているのが男の人か女の人かなんて、その人が猫アレルギーかどうかと同じくらい気にならない。知っておくに越したことはないけれど別に知らなくてもいいという感じだ(うちに猫はいないし)。それよりも、その人がどういう人間なのかということが気になる。「そう考える人間は少ない」というのが「変わっている」ということだったら、きっと私は変わっているのだろう。

だいたい兄弟だろうとどんなに親しい友人だろうと、その人がどっちの性(どっちでもないこともあるが)を好きになるかどうかなんて、その人を好きになってしまったり、好かれたり、同じ人を好きになってしまったりでもしない限り自分には全然関係ないことだし、よくみんなそんなことによくも悪くも興味津々になれるなあと思う。その人に好かれた場合も好きじゃなければお断りすればいい話だし好きなら付き合えばいいし、同じ人を好きになってしまったらそれは同性かどうかに関わらず難しい話である。

「なんかよくわかんないけど」怖い、とか気持ち悪い、とか思ってしまうのはある程度仕方ないことかもしれない(これは外国人などに対しても抱きうる感情である)。でも目の前にいる人の性的指向が誰に向くのかなんてたいていの場合どうでもいいことではないのか。そしてそんなどうでもいいことを根拠に差別されたり、好きな人と結婚できなかったりするのはおかしいのではないか。

私たちの人格というのは、誰を好きになるかということにそんなに大きく影響されるのだろうか。たまに「ゲイの友達ほし~い」なんて話を聞くけれど、私の周囲にいる同性指向の男性たちには(テレビでよくあるような)毒舌でズケズケ言ってくるような人はいないし、女言葉でしゃべる人もいない。中には「お前って本当に男を見る目がないよな」って言ってくる人はいるけれど、それは悲しいことに異性指向の男性にも女性にも言われることである(……)。同性指向の人々の間で特有の文化が生まれているのならそれは興味深いことだけれど、同性指向の人全員にその文化に染まっていることを期待するのはおかしい話だし、その文化だけを理由に「友達になりたい」なんて失礼な話だと思う。これは「同性指向の人」を「外国人」に置き換えてみても同じことだ。

それに、世の中は同性愛者と異性愛者に区切られるのだろうか。私は今まで男性としかお付き合いしたことはないし、女性に恋愛感情を抱いたことはないけれど、それは実は偶然で、これから先女性を好きになることもあるかもしれないし、ないかもしれない。もし将来的に女性を好きになったら、その時には性的指向を理由に差別されない社会になっていることを望む。