普通に普通でいられる人びと

 

 選択的夫婦別姓同性婚合法化などなどに対して「秩序を乱す」とか「伝統的な家族観が壊れる」などいう人は、その秩序や伝統の下に傷ついたり嫌な思いをしたり不便な思いをしたり安全な生活を脅かされたりする人々の存在はまったく気にかけない、むしろ、そういう人々がいることすら想像したことのない人なのかもしれない。

 ただ、そういう発想をしたことがないというのは、つまり自分自身がそういう経験をしたことがないということでもあって、ある意味で幸せな人生を歩んできた人なのだろう。

 また、そういう人々の存在は知っているけれど、実際にそれがどういう生活なのか想像もせずに、「そんなの大した問題じゃない」と我慢を押し付けるような人もいる。

 そういう人は、今まで自分たちと比べて権利を(不当に)制限されてきた人々が自分たちと同等の権利を手にすることに、ある種の恐怖を抱いているようにすら見える。

 

 実際に、夫婦別姓を選べないことや、同性同士で結婚できないことは実質的に大した問題ではないとしよう。

 結婚した2人のどちらかが姓を変えることになっても、誰しもが特に支障なく手続きを終えることができて、初期の混同やらなんやらも問題なく乗り越えることができるとしよう。

 それでもやはり夫婦別姓の選択を可能にする法律が存在しない限りは、政府が「結婚したらどちらかの家に入るべき」という考えを捨て去っていないことになるし、「結婚した後も旧姓○○家の人間としてのアイデンティティを捨てない」生き方は奨励していないことになる。

 わたしはおそらく選択的夫婦別姓制度が導入されてもすぐにはそれを選択する人は増えないと考えているけれど、それでもそれが制度として存在しているかどうかは大きいと思う。*1

 同性婚にしても、制度として結婚はできなくても同居するとかなんとかして(雑ですみません)、事実婚の状態になることはできても、やはり同性婚が制度として存在しない限りは政府がそれを生き方の一つとして尊重していないことになる。

「制度はどうあれ気にしない」という当事者の方々もいるし、それはカッコいいと思うけど、個人としては制度として存在してほしいという気持ちがある。

 

 さきほど、「ある意味で幸せな人生を歩んできた人」と書いた。さほど苦労をしなくても、秩序と伝統の下で権利を行使できて、それを当然と思っている人たちのことだ。ちょっと考えてみてほしい… 自分が日本社会の圧倒的マジョリティ(それを「普通の人」と言ったりもする)に属しているのは、はじめから自分らしい生き方を社会が承認してくれているのは、偶然のなせる業じゃないか? と。

 

 

 

 

 

*1:実質的な問題は生じていなくても、制度として存在する/しないが問題になることはほかにもあって、男女の結婚可能年齢の違いもそのひとつである。

 現在、日本の法律上は女性16歳、男性18歳から結婚が可能である。ざっくり言って、女性のほうが若い状態で結婚すべしとされている社会というのは、女性が「守られるべき存在」とされていたり処女信仰があったり、つまり女性が社会的に弱い立場に置かれている。実際に16歳で結婚する女性がほとんどおらず、それで不自由する人もほとんどいないにしても、法律を維持したままでいるのはそういう社会のありかたを問題視していないと解釈される可能性は十分にある。