それでも「なぜ逃げなかったのか?」を問う人々
私が高校生のころ、電車で痴漢被害に遭ったことがある。
それまで私は、自分がそういう被害にあったら、助けを求めるなり抵抗するなりできるものと思っていた。気が強いほうだと思うし、間違っていることは間違っているとはっきり言うタイプだった。
でも実際には、声をだすどころか手を振り払うこともできなかった。それまで想像したこともなかったいろいろな可能性が、次々に頭に浮かんできてしまったからだ。
「誰も助けてくれなかったらどうしよう?」
「間違った人が捕まってしまったら?」
「電車が遅れると周囲の人に文句を言われたらどうしよう」
「学校に遅刻したらどう説明しよう。どこまで伝わるんだろう」
「もし相手が逆上したらどうしよう?」
「『やってねえよ!』と怒鳴られたら?」
「周りの人が誰も信じてくれなくて、冤罪扱いされたら?」
「共犯者がいたら?」
「相手が刃物を持っていたら?」
…
結局わたしは我慢することを選び、自分の側のドアが開くまで2駅の間、どこまでされるのかという恐怖と嫌悪感に耐えるしかなかった。ホームに降りてもう安全だと思ったとき、当時の彼氏に電話しようと携帯を取り出して、やめた。
『それって本当に痴漢なの? 勘違いだったんじゃない?』
『自衛が足りなかったんじゃないの?』*1
『助けを求めればよかったのに。たかが痴漢じゃん』
『どうして抵抗しなかったの? 実はうれしかったんじゃないの?』
『痴漢に遭った報告なんかされても…それ私可愛いですアピール?』
彼氏は普段からそういうことを言っているわけではなかった。でも私は、そういうことを平気で言う人がいるということを知っていた。このことを誰かに話して慰めてもらいたかったけれど、そのせいで余計に傷つきたくはなかった。
残念なことだけど、実際に「自分の力ではどうしようもない状況」に置かれたことのない人の想像力というのは、あまりにも貧困だ。私もそうだった。でも、『たかが痴漢』でさえ、逆上されたら何をされるかわからない、失敗したらどうなるかわからないという恐怖感から声をあげられないということが、このときようやくわかった。
それが、自分を車で連れ去った人間だったらどうだろう? まして女子中学生と大学生の男性では体格差も大きく、大学生のほうは「いかにも犯罪しそうな人」というわけではない。助けを求めても、「まさかあの人がねえ」で済ませられてしまうかもしれない。
それでも「なぜ逃げなかったのか?」を問い続ける人へ。
まだ容疑者の証言を得られていなく、少女の言い分だけで判断するのは…というのはわかります。でも、今の段階で*2少女の落ち度を声を大にして責めるのは、今後類似の事件が起こった際に、被害者の声を封じ込めてしまいます。被害者が声を上げられない社会というのは、 つまり犯罪者にとって都合の良い社会です。そういう社会を自分が作っているかもしれない、ということも考えてみてください。
それから、被害者の言い分ばかりが優先され、時には被害者の証言のみで罪が確定してしまうのは、被害者のせいではなく、日本の司法の問題です。そして、まだ少女の証言しかないにも関わらず、「監禁」などの犯罪が確定したかのような報道には私も違和感を覚えます。しかし、そこに不満を感じるのなら、責めるべきなのは少女より司法・マスコミでは。
私がこの痴漢にあった話を友人等にできるようになったのは、5年以上経ってからだった。もちろんしょっちゅう言いふらすわけではないし、話をするときも「自分が受けたのなんて大したことないんだけど…別に電車乗れなくなったわけじゃないしw もっとひどい痴漢だってたくさんいるし」という風に、なるべく軽くして話してしまう。そう言われるかもしれないな、と先回りしておくことで、傷つくことを回避しているのだ。でも、そういう言い方をしても、 想像力を働かせて、「そういうとき、怖くて何にもできないよね」と言ってくれる人はいる。そういう想像力を私も持ちたい。